東京に行く金もない
アメリカに行く金もない中で
弟と大喧嘩をして
アメリカに行き
しかも200万くらいした
マイクロコンピューターを
全てクレジットカード決済して
購入して帰ってきた
赤字の無線販売を顧みず
次々にPC製品を購入し
朝から晩までずっと何か月間も
プログラミングに熱中していたという
弟の浩は10年間は
とんでもない人についてきてしまった
えらい兄貴をもってしまったと
後悔していたという
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創業者の工藤裕司は北海道札幌市出身であり、日本大学理工学部卒業後、名古屋でサラリーマンをしていた。しかし在学中から行っていた、自ら撮影した蒸気機関車の写真を販売するサイドビジネス「グループハドソンプロダクション」で、資金管理に関して無知だったために信頼していた人間に金を持ち逃げされるなどトラブルを多く抱え、本業も退社し、失意の内に帰郷していた。当初は喫茶店を開業するつもりだったが、同一建物内で別の借り主が喫茶店を開業したため、急遽無線ショップに変更したとも言われている。 なお、上記のトラブルを踏まえ、信用できる人間を使うという意味で、当時北海学園大学法学部2年生だった実弟の工藤浩を中退させ、経営サイドに引き込んでいる。ただし、アマチュア無線販売時代のハドソンはほぼ毎月赤字だった。 パソコンのソフトメーカー時代[編集] 1970年代末、工藤裕司がアメリカでのホビーパソコンのブームを伝える雑誌記事を目にし、米国への視察旅行を行い、そこで高額なパソコンを購入し持ち帰った。その後パソコンの販売はもとより、アメリカ視察で購入したパソコンで組んだソフトウェアの制作・販売を手掛けるようになる。当時は、同じ電子機器を扱っているからという理由で多くのアマチュア無線ショップがパソコン販売会社に鞍替えしていた。 ソフトウェアに関しては、当初はパソコンを購入した客が自力でプログラムを開発できない場合のおまけとしての存在だった。この時点のハドソンにはまだ開発用の機材がほとんど無く、顧客に販売するコンピュータを納品の前日にこっそり開梱しプログラムを打ち込み、当日朝には再度梱包して納品するという、ある種の自転車操業を行っていたこともある[3]。なお、ソフトは店頭販売も行っていたが、ローカル都市の1ショップであり広告宣伝もさほど行っていなかったため、知る人ぞ知るという状況だった。一方で、ショップは次第に、北海道大学の学生などを主とした札幌市内のパソコンマニアの溜まり場となった。中本伸一など一部の学生はアルバイトとして自らソフトを開発し、それらのソフトも店頭で販売するようになった。 パソコンに鞍替えしてからも「いつ潰れてもおかしくない資金繰り」だった。しかし1979年、ハドソンが扱っていたパソコンの販売元シャープの勧めで、「月刊マイコン」(電波新聞社)昭和54年7月号にオリジナルソフトウェアの通信販売広告を掲載すると一転、郵便局員が毎日のように現金書留の詰まった白い袋を担いで来る状況になり、莫大な利益を得ることになった。当時のハドソン社内では郵便局員を「サンタクロース」と呼んでいた[4]。 以降、パソコンソフト開発で高い技術力を発揮し精力的に作品を発表し、一躍ハドソンは日本を代表するパソコンソフトメーカーとしての認知を得る。ただし、当初は主にシャープのMZシリーズ、X1シリーズ用のBASIC(Hu-BASIC)などを手掛けており、日本で圧倒的な人気があったNECのPC-8000シリーズ用のソフトを開発していなかった[5]。そのため、ハドソンの名前は当時のパソコンのライトユーザーには浸透していなかった。 1981年には孫正義率いるパソコンソフトの流通会社である日本ソフトバンクと独占契約を結び、上新電機を始めとする全国の主なパソコン販売店の店頭でソフトウェアが販売される体制を確立した。なおソフトバンクの歴史でハドソンの存在は必要不可欠と言われており、現在も孫は工藤兄弟を「恩人」と呼び、事ある毎に礼を欠かしていない
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創業者の工藤裕司は北海道札幌市出身であり、日本大学理工学部卒業後、名古屋でサラリーマンをしていた。しかし在学中から行っていた、自ら撮影した蒸気機関車の写真を販売するサイドビジネス「グループハドソンプロダクション」で、資金管理に関して無知だったために信頼していた人間に金を持ち逃げされるなどトラブルを多く抱え、本業も退社し、失意の内に帰郷していた。当初は喫茶店を開業するつもりだったが、同一建物内で別の借り主が喫茶店を開業したため、急遽無線ショップに変更したとも言われている。 なお、上記のトラブルを踏まえ、信用できる人間を使うという意味で、当時北海学園大学法学部2年生だった実弟の工藤浩を中退させ、経営サイドに引き込んでいる。ただし、アマチュア無線販売時代のハドソンはほぼ毎月赤字だった。 パソコンのソフトメーカー時代[編集] 1970年代末、工藤裕司がアメリカでのホビーパソコンのブームを伝える雑誌記事を目にし、米国への視察旅行を行い、そこで高額なパソコンを購入し持ち帰った。その後パソコンの販売はもとより、アメリカ視察で購入したパソコンで組んだソフトウェアの制作・販売を手掛けるようになる。当時は、同じ電子機器を扱っているからという理由で多くのアマチュア無線ショップがパソコン販売会社に鞍替えしていた。 ソフトウェアに関しては、当初はパソコンを購入した客が自力でプログラムを開発できない場合のおまけとしての存在だった。この時点のハドソンにはまだ開発用の機材がほとんど無く、顧客に販売するコンピュータを納品の前日にこっそり開梱しプログラムを打ち込み、当日朝には再度梱包して納品するという、ある種の自転車操業を行っていたこともある[3]。なお、ソフトは店頭販売も行っていたが、ローカル都市の1ショップであり広告宣伝もさほど行っていなかったため、知る人ぞ知るという状況だった。一方で、ショップは次第に、北海道大学の学生などを主とした札幌市内のパソコンマニアの溜まり場となった。中本伸一など一部の学生はアルバイトとして自らソフトを開発し、それらのソフトも店頭で販売するようになった。 パソコンに鞍替えしてからも「いつ潰れてもおかしくない資金繰り」だった。しかし1979年、ハドソンが扱っていたパソコンの販売元シャープの勧めで、「月刊マイコン」(電波新聞社)昭和54年7月号にオリジナルソフトウェアの通信販売広告を掲載すると一転、郵便局員が毎日のように現金書留の詰まった白い袋を担いで来る状況になり、莫大な利益を得ることになった。当時のハドソン社内では郵便局員を「サンタクロース」と呼んでいた[4]。 以降、パソコンソフト開発で高い技術力を発揮し精力的に作品を発表し、一躍ハドソンは日本を代表するパソコンソフトメーカーとしての認知を得る。ただし、当初は主にシャープのMZシリーズ、X1シリーズ用のBASIC(Hu-BASIC)などを手掛けており、日本で圧倒的な人気があったNECのPC-8000シリーズ用のソフトを開発していなかった[5]。そのため、ハドソンの名前は当時のパソコンのライトユーザーには浸透していなかった。 1981年には孫正義率いるパソコンソフトの流通会社である日本ソフトバンクと独占契約を結び、上新電機を始めとする全国の主なパソコン販売店の店頭でソフトウェアが販売される体制を確立した。なおソフトバンクの歴史でハドソンの存在は必要不可欠と言われており、現在も孫は工藤兄弟を「恩人」と呼び、事ある毎に礼を欠かしていない
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