NOAは任天堂から2000台のゲームセンター用の
ゲーム機をアメリカに輸入したが全く売れなかった
内蔵するゲームソフトの変換はROM
半導体記憶装置の交換だけで安価で容易にできた
それを任天堂に要請した

しかし荒川の要請をほとんど無視して
おもちゃのデザインやゲーム機のハード設計をしていた
当時29歳の宮本茂というたった一人の社員に
仕事を押し付けた

しかしこの宮本茂がドンキーコングのアイデアを出す

このゲームを荒川は早速社員4名ほどに見せたが
誰もいいとはいわず
ある人はすぐ近くのバーに行ってビールを飲み
ある人は求人を探しに行く始末だったという

しかし次の日
キャッシュボックスを見ると
1日35$稼ぐことができていて
そのゲームセンターの中で1位だった
その後半信半疑であったが売上が伸び続け
確信するにいたったという

ドンキーコングは6万台
ドンキーコングジュニアが6万台
合計12万台売れることになった

しかしROMの交換だけで使用が可能になるため
容易に海賊版の制作が可能であったため
これを阻止するために全米25社の弁護士事務所
50人以上の私立探偵を組織したとされる

その後ATARI2600という家庭用ゲーム機が
爆発的に売れた
8000万世帯に対して2500万世帯に売れたとされる
その普及率を見て日本でも同様に普及すると推定された

セガコンピューターと任天堂のファミコンが争い
安価でゲーム特価した任天堂が勝利をおさめ
宮本茂が二発目に充てることになるソフト
スーパーマリオは同時期にセットで売れていった

※ファミコン製造の内訳
製造コストダウンを任されたのは
シャープから引き抜かれた上村雅之である
 
色の数は通常何十万色という色が使われるが
コストダウンのため54色のみで対応し
赤と白のボディーもコストダウンのための色彩だった
宮本にキャラクターを任せ
ジョイスティックもコストダウンのため四角形の形にした
本当は1万円以内の販売価格が目標だった
 

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京都室町の繊維問屋、荒川益次郎商店(現:荒川株式会社)の次男として生まれ、裕福な生活を送る。荒川家は大阪において享保年間より繁栄した旧家であった。兄は荒川株式会社会長、二人の女兄弟は、それぞれ大学教授と物理学者に嫁いだ。實の母親ミチ(旧姓石原)は八世紀の日本を支配した宇多天皇の末裔で、祖父は初代京都市長内貴甚三郎、父親石原半右衛門は有力な国会議員。石原家は土地持ちで、小作人を多くかかえていた。ミチと荒川和一郎が結婚したとき、両家の所有地を合わせた面積は京都市街地の五分の一に達したという。 (以下、「ゲーム・オーバー―任天堂帝国を築いた男たち」より抜粋)
1968年、京都大学工学部土木工学科を優秀な成績で卒業。京都大学大学院工学研究科、マサチューセッツ工科大学大学院土木工学専攻科修了。実家の富のおかげで特権的な立場にあったため、自らの進むべき道について悩んでいた。
1972年に丸紅に入社。当初は海外開発建設部に配属され、海外のホテル・事務所・コンドミニアム等の建設と販売を担当した。1980年に義父である山内の誘いで丸紅を退社し、ニューヨークにNOAを設立、初代社長に就任する。
ところがNOAの設立早々、米国で販売するために日本からビデオゲームの筐体を輸入したが、それが大量に売れ残ってしまった。そこで荒川は筐体はそのままにプログラムのみを差し替えて販売するために任天堂本社に助けを求めた。その依頼をたまたま任されることになったのが当時まだ若手社員だった宮本茂で、製作されたのが『ドンキーコング』である。『ドンキーコング』は関係者の予想に反し大ヒットし、NOAは米国での橋頭堡を築くことに成功した。1981年には「日本から製品を輸入するには西海岸にオフィスがあったほうが有利」という理由で、NOAの本社をシアトルに移転する。
1985年当時、アメリカのコンピューターゲーム産業は、1983年に発生したアタリショックによって崩壊していた。荒川はハワード・リンカーンと共に、Nintendo Entertainment System(日本名:ファミリーコンピュータ)によって、この業界を再建させた。